生い立ち
寛文2年(1662)3月15日、武蔵国多摩郡平沢村(現:あきる野市平沢)の名主窪島(久保島)家の八郎左衛門の次男として生まれる(兄弟は兄の他 姉2人妹4人)。兵太夫、兵庫、重閭(しげさと)、休愚、休愚右衛門、喜古(よしひさ)などと称す。 窪島家の先祖は相模に住み甲斐の武田氏の家臣であったが、武田氏滅亡後武蔵国平沢村に移りこの地を支配していた。その後農業と絹物行商を生業としていた。
丘隅は幼い頃から頭もよく体力的にも優れており、妹の面倒を見ながら、家業の農業も熱心に手伝い、一方で絹仲買の商売で各地を回っていた。いつでも腰に書物を離すことなく寸暇を惜しんで学び、向学心はきわめて旺盛であったという。
川崎へ
丘隅が行商に出かけた先のひとつに東海道川崎宿があるが、商売熱心で誠実な人柄を見込まれて22歳の頃川崎宿本陣名主田中家の養子に迎えられた。 しかし、この頃の川崎宿は伝馬制度の負担、多摩川の再三の洪 水や地震などで苦しい経済状況であった。 丘隅は、宝永元年(1704)42歳の頃義父の跡を継ぎ、田中兵庫を名乗り川崎宿の本陣・名主・問屋役の三役に就いた。幕府から六郷川(多摩川河口近くの別称)の渡船権を川崎宿の請負になるよう願い出て許可を受け、渡船賃の収入を得られるようにした。また幕府から宿救済金3500両の支給を受け、短期間の間に川崎宿を再興した。
業績
正徳元年(1711)、丘隅50歳の時、問屋役を猶子太郎右衛門に譲り、永年の夢であった江戸遊学を実現させた。儒学者荻生徂徠の門に入り経世済民(農業政策論など)を学んだ。享保4~5年(1720)にかけて丘隅は「走庭記」と名付けた回想記を著し、60年近い自分の人生を反省し、14カ条の教訓として子孫に伝えた。 また、翌6年「民間省要」全17巻を著し、農民の生活実態、年貢徴収の実情、凶作対策、治水策などを論じ、その問題点について自身の意見を書いている。この本は有識者の間で好評を得て、八代将軍吉宗に献上された。 これをきっかけに吉宗は江戸町奉行大岡越前守忠相に丘隅の登用を促し、川除御普請御用を任命している。特に享保11年(1726)の酒匂川改修工事は、綿密な調査の上、丘隅が考案したと言われる弁慶土俵の効率的な使用など様々な工夫をこらし堤防作りを成功させた。この堤は文命堤と呼ばれ記念碑が建てられている。 享保14年、それまでの業績・手腕を認められ武蔵国内三万石を管轄する支配勘定格に命ぜられたが、同年12月22日江戸浜町の役宅で68歳の生涯を閉じた。丘隅は、田中家菩提寺妙光寺(川崎市)に葬られ、故郷あきる野市平沢の廣済寺にも回向墓が建てられている。
参考文献
書名 | 著者名 | 出版年 | 出版者 |
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郷土あれこれ第5号 | 平成10年 | あきる野市教育委員会 | |
輝いて生きる№7 | 平成11年 | あきる野市教育委員会 | |
秋川市史 | 編集:秋川市史編纂委員会 | 昭和58年 | 秋川市 |
郷土に光をかかげた人々 | 昭和29年 | 東京都西多摩地区小学校長会 |