生い立ち
別名:中村龍之輔。明治3年(1870)7月23日、神奈川県西多摩郡西秋留村(現:あきる野市牛沼)に、父・源吾之輔、母・みちの五人兄弟の三男として生まれる。龍之輔の家は、江戸時代から続いている八王子千人同心の世話頭格の家で、五俵二人扶持であったと言われている。 明治9年4月、共和学校(現:あきる野市立西秋留小学校)に入学、同15年に中等科を卒業後、高等科で学びながら助教として小学生を教えていた。明治20年10月神奈川県師範学校に合格し、寄宿舎生活で4年間を過ごした。
教育に情熱を傾けて
明治24年11月に卒業後、西多摩郡古里村の習文小学校(現:奥多摩町立古里小学校)に訓導兼校長として赴任した。当時の習文小学校は、西光寺の本堂を借りて授業をしていたが、ふすまや障子も破れているような状況だったため、龍之輔は教室の清潔・整頓からはじめ学校と家庭との行動・言動に表と裏があってはならないと厳しく教えた。また通学区域ごとに夜間の自習会を組織させ、自ら草鞋履きで見廻り、父母からのもてなしも一切受けなかった。さらに村の共有林を学校財産として保護者の教育費に回すなどの取り組みを行なった。 その後、南多摩郡町田村(現:町田市)日新学校、高座郡渋谷村(現:大和市)渋谷高等小学校、南多摩郡南村(現:町田市)開朦尋常高等小学校に勤め、31歳となった明治33年10月、東京市下谷区練屏小学校に赴任した。同34年より貧困による不就学児童のための学校設立の推進役に任命された龍之輔は、練屏小学校勤務後の時間を不就学児童の実態把握にあて、周辺を歩き回り住民の暮らしぶりを入念に調査した。この結果、8割以上の子どもたちが学校に通ったことがなく奉公に出されたり子守りや手伝いをさせられているという実態をつかみ、新たな特殊学校(貧民学校)の設立準備に没頭していった。 同35年10月、東京市万年尋常小学校訓導兼初代校長に赴任。「小学校こそは人間形成の基礎工期なり」を信念に、授業料免除、教科書・教具の貸与の他、基本的生活習慣に至るまで熱血を注いだ。またこれに加え、浴室の新設や、知恵遅れの子どもたちのための特別学級の設置や夜学部の開設なども実現させた。龍之輔は、およそ20年間、東京下町での教育実践に明け暮れたが、大正10年5月心臓病を患って退職している。牛沼の生家に帰り悠々自適の生活を送り、昭和17年3月26日、73歳の生涯を閉じている。
龍之輔に関する著作、顕彰碑
昭和18年、万年小学校の教え子であった添田知道が、龍之輔の生き方をモデルにした小説「教育者」(昭和18年第6回新潮文芸 大衆文学賞受賞)を春歩堂などから刊行した。また同小説は、昭和58年に添田自身が改定、加筆して玉川大学出版部から再刊されている。 昭和32年3月21日、下谷万年小学校の教え子有志によって、生家跡(現:あきる野市牛沼 滝山街道沿い)に敬慕碑が建てられた。また万年小学校(現:台東区北上野、駒形中学校)校庭内に、やはり教え子有志によって「郷土の教育開拓者」と題し坂本龍之輔像が建てられている。
参考文献
書名 | 著者名 | 出版年 | 出版者 |
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秋川市史 | 編集:秋川市史編纂委員会 | 昭和58年 | 秋川市 |
秋川流域人物伝 | 著者:中村正 編集:西の風新聞社 |
平成7年 | |
教育人物史話-江戸・明治・大正・昭和の教育者たち- | 著者:山本龍生 | 平成9年 | 日本教育新聞社出版局 |
郷土あれこれ第12号 | 平成16年 | 発行:あきる野市教育委員会 |