生い立ち
本名は、坂本雅城(さかもと まさき) 。 ペンネームは、漫画家のときは『阪本牙城』、水墨画家のときは『阪本雅城』と使い分けている。明治28年(1895)12月1日、東京府西多摩郡五日市町(現:東京都あきる野市小中野)に、父・馬吉、母・ヒサの次男として生まれる。五日市小学校5年生の時、現在も使用されている同校の校章をデザインし天賦の才の一端を示す。
五日市小学校高等科を卒業後、東京府立第二中学校(現:東京都立立川高等学校)に入学、中学入学後は「文章世界」(博文館)などの文学投書欄に投稿を始める。 明治45年17歳で同校を卒業。大正2年18歳のとき、画家を志すが家族に反対され、広島県尾道の高等小学校に代用教員として赴任、その後東京に戻り羽村高等小学校に勤務した。このころから本格的に画家を目指し、川端絵画研究所で絵画を修業する。岡本一平(岡本太郎の父)の漫画会第一回展に出品したのが縁で、一平にすすめられ漫画家としてデビューする。
漫画家として
大正12年から3年間、星製薬株式会社広告部に勤務し、文案、図案を担当、昭和4年に折田フミと結婚、この頃中外商業新聞(現日本経済新聞)、大阪夕刊新聞(現産経新聞)に漫画を連載。昭和8年38歳のときペンネームを「牙城」に改め、タンク・タンクローを講談社「幼年倶楽部」に発表、人気を博し連載は5年間に及んだ。また東日、大毎小学生新聞でも漫画「ジャンケンポンチャン」を連載するなど活躍する。
大陸へ
昭和14年44歳で旧満州国政府開拓総局の広報担当嘱託として大陸にわたり、開拓義勇隊訓練本部の嘱託を兼ねた牙城は、絵を描く事が好きな義勇隊員を集め、200人の義勇隊漫画部隊を結成し、自ら部隊長となり満州各地の訓練所を訪ね、義勇隊員を慰問、激励して青少年の情操教育に尽力した。 牙城は漫画を描く傍ら、独学で水墨画を学び、昭和17年47歳の時、東京銀座で「満州風物 坂本牙城個人展覧会」を開く。昭和20年ソ連の侵攻を受け、開拓総局職員の留守家族850人をまとめ帰国の途につく。途中北朝鮮で終戦を迎え、亀城郡方面で1年間をすごし、帰国まで、多くの苦難を体験する。
画と禅
昭和21年、帰国後再び漫画家として筆を執り、講談社の少年倶楽部に「がらがら先生」を連載する一方で、小宮村(現:あきる野市乙津)の徳雲院に加藤耕山老師を度々訪ね、禅に傾倒する。また、南画にも取組み、昭和27年58歳から書道月刊誌「みずくき」に「南画講座」を17年間にわたり連載するなど、水墨画に没頭していく。漫画については、昭和31年、単行本として出版した「清水次郎長」を最後に筆を折っている。 昭和24年からは、臨済宗の大森曹玄師に師事し、師の主宰する「鉄舟会」の常務理事を務めるなど、禅の修行に傾注していく。禅画の制作に専心し、日本橋高島屋、上野松坂屋、新宿の京王百貨店等において精力的に個展を開催。故郷五日市町でも、当時の東京都知事・東竜太郎氏等を発起人に個展を開催している。個展の開催回数は16回にも及ぶ。また、昭和39年には旧五日市町の町章制定の審査委員長を務めている。昭和48年77歳で逝去した。
死してなお
雅城の死後も、タンク・タンクローは五日市町の広報のキャラクターを努めたほか、宇宙開発事業団と通産省が取り組んだ人工衛星SFUのマスコットキャラクターにも選ばれている。また、昭和51年に講談社、平成18年小学館からタンク・タンクローは復刊され、未だ衰えぬ人気の高さがうかがい知れる。
参考文献
書名 | 著者名 | 出版年 | 出版者 |
---|---|---|---|
画と禅 | 阪本雅城 | 平成16年 | タンクロー出版 |
タンク・タンクロー | 作画:阪本牙城 | 平成17年 | 小学館クリエイティブ |
秋川流域人物伝 | 著者:中村正 編集:西の風新聞社 |
平成7年 | |
ONE THOUSAND YEARS OF MANGA | Brigitte Koyama-Richard | 2008年 | Flammarion |
リンク
「タンク・タンクローへようこそ」 阪本牙城ホームページ http://www.ne.jp/asahi/tank/tankrou/