生い立ち
本名:倉片 よし。 明治19年8月7日、埼玉県入間郡三ヶ島村堀之内(現所沢市堀之内)に生まれる。父・三ヶ島寛太郎は、中氷川神社の出、小学校長。実母は、東京府西多摩郡増戸村伊奈(現:あきる野市伊奈)岩走神社社家宮沢安堯の長女。母は、葭子5歳のとき、病没。その後父は、小暮のぶと再婚。
小宮小学校に奉職
葭子は、埼玉県女子師範学校を病気のため中退。宮沢家の世話もあって、明治41年6月から大正3年3月(21歳~27歳)まで、東京府西多摩郡小宮尋常高等小学校(現:あきる野市立小宮小学校)に約六年間在職、乙津(落合)の雑貨商・森屋りつ方の奥座敷八畳を借りて自炊の生活をおくっている。
この時期、与謝野晶子の門下となり、「女子文壇」「スバル」等の雑誌に多くの短歌・散文を発表。大正3年3月、結婚を理由に退職。25日の卒業式の後、小宮村から五日市町まで、校長に引率された全校児童に送られて上京する。
歌人として
波乱に富んだ生活の中で、「アララギ」「日光」また平塚らいてうの「青鞜」誌上等で活躍。一時は、晶子の後継者と目されたこともあったが、大正5年、明星調の作風に疑問を持ち、島木赤彦の門下となる。大正10年親友の原阿佐緒と石原純との恋愛問題に関する論文を、「婦人公論」に掲載したことにより、赤彦より破門される。大正15年古泉千樫の「青垣会」結成に参加したが、昭和2年3月26日、麻布谷町(現:六本木)の自宅で逝去。享年40歳であった。 生前刊行された歌集は、『吾木香』のみであったが、その後、遺児・倉片みなみの努力によって、『定本三ヶ島葭子全歌集』『三ヶ島葭子日記』(上下巻)他が刊行され、小宮時代を含めてその全貌が、より明らかになった。小宮時代の相聞歌、上京後の愛児の歌、晩年の透徹した心境を読んだ歌等は注目される。葭子の生涯を描いた小説・評伝等も多く、今日でも、葭子ゆかりの地を訪れる人は多い。なお、俳優の左ト全は、葭子の異母弟である。
小宮時代に詠まれた作品
名も知らぬ小鳥きたりて歌ふとき我もまだ見ぬ人の恋しき 薪折るくりやの音を夕ぐれの奥の間に聞く心もとなさ あめつちのあらゆるものにことよせて歌ひつくさばゆるされむかも 寂しさを歌ふ人なくなりし時ろをまの国は亡びしときく 昨日までけふの昼まで君と見し山くれはてて雁鳴きわたる 秋雨に濡れつつ君が越えゆきし山に灯一つともる夕ぐれ
参考文献
書名 | 著者名 | 出版年 | 出版者 |
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三ヶ島葭子歌集『吾木香』 | 東雲堂書店 | ||
現代短歌全集第二十巻「三ヶ島葭子集」 | 改造社 | ||
青垣叢書『三ヶ島葭子全歌集』 | 立命館出版部 | ||
創元選書『三ヶ島葭子歌集』 | 創元社 | ||
三ヶ島葭子歌集『吾木香』 | 短歌新聞社(創元社版復刻) |
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文庫版歌集『吾木香』 | 短歌新聞社 | ||
『定本三ヶ島葭子全歌集』 | 倉片みなみ編 | 短歌新聞社 | |
『三ヶ島葭子日記』(上下巻) | 倉片みなみ編 | 至芸出版社 | |
『三ヶ島葭子往復書簡抄』 | 倉片みなみ編 | 至芸出版社 | |
新版『吾木香』 | 倉片みなみ編 | 水の原社 | |
『葭子慕情』 | 倉片みなみ著 | 水の原社 | |
『三ヶ島葭子研究』 | 川合千鶴子他著 | 古川書房 | |
『三ヶ島葭子全歌集』(第四巻まで。以後未完) | 水の原新書 | ||
『今日ある命』小説三ヶ島葭子の生涯 | 大原富枝著 | 講談社 | |
『地の歌人三ヶ島葭子』 | 福本武久著 | 新潮社 | |
『三ヶ島葭子全創作文集』 | 秋山佐和子編著 | ながらみ書房 | |
『歌ひつくさばゆるされむかも』 | 秋山佐和子著 | TBSブリタニカ | |
『三ヶ島葭子』 | 三ヶ島葭子編集委員会編 | 所沢市教育委員会 | |
『三ヶ島葭子Ⅱ』 | 所沢市教育委員会 | 所沢市教育委員会 | |
吉屋信子全集11『ある女人像 近代女流歌人伝』 | 朝日新聞社 | ||
『田井安曇著作集』第六巻評伝編「三ヶ島葭子」 | 田井安曇著 | 不識書院 | |
『小宮小学校百年史』 | 同史編集委員会 | ||
『村長さん』 | 鮎沢信太郎著 | 小川書店 | |
『日本近代文学大事典』 | 講談社 | ||
『現代短歌大事典』 | 三省堂 他 |