生い立ち
明治6年(1873)2月7日、当時の神奈川県多摩郡五日市村中下宿68番地 (現在:あきる野市五日市68番地)に、父・喜左衛門、母・ちよの長女として生まれる。萩原家は、江戸時代炭問屋だったが、タケの生まれる頃には藁を扱っていたため「藁屋のタケさん」と呼ばれていた。タケは長女で、下には5人の弟がおり家計は厳しかったという。 明治11年満5歳の時、勧能学校に入学。同年10月には優等賞を受賞するほど優秀で、3年間程学校に通った。また、タケは学問好きな母の影響で、弟たちの子守りをしながらも読書に励み、裁縫なども得意だったという。
向学心の強いタケは、更に15・6歳の頃から当時評判の「女学雑誌」の通信教育を受け始めた。和歌・和文・漢学・算術・歴史・地理・理化学などを独学し、明治24年1月には通信女学部全科を修了し、卒業証書をもらっている。そして、その年の春、18歳のタケは上京し、両国矢ノ蔵の桜井産婆学校に入学している。しかし、通学・学費等が大変だったためか1年足らずで退学し、帰郷している。
日本赤十字社へ
明治25年9月の日本赤十字社の看護婦生徒募集を10月になって気づいたタケは、中途入学の嘆願書を提出した。「私はかねて看護婦を希望していたが、田舎住まいのため、その便がなく、只今看護婦生徒募集を知ったところです。 本当に残念です。ついては、途中から採用してくださらないか。どうかお願いいたします。」 この、嘆願書は認めらなかったが、半年後の明治26年4月満20歳の春、第七回生として入学を果たした。 タケは、「全国看護婦の模範となる核となるべき」という日赤社長の言葉を胸に学習に励んでいた。しかし、明治27年に日清戦争勃発すると、翌年からは教育中の看護婦も戦傷病者の介護に従事することになった。ここでも、動作が機敏で手先が器用で、しかも気配りのできるタケは、患者からも医者からも信頼厚く賞賛され、明治29年6月の三陸大津波では、災害派遣班にも選ばれている。 同年10月に卒業した後も、タケは日赤が行った救護活動・軍事訓練には必ず選ばれて参加している。中でも、明治33年北清事変では、新しく建造された2600トンの専属病院船2隻のうち、1隻「弘済丸」の看護婦長に選ばれている。救護者の中には、フランス兵をはじめとする連合国人も含まれていた。この時の献身的な看護により、タケは、フランス政府よりオフィシェー・ド・アカデミー記章を贈られている。同36年30歳でタケは看護婦副取締となり、全看護婦を統括するとともに生徒の教育養成に当たる。37年の日露戦争中には一時看護婦取締代理を務めている。
海外生活
明治40年、伏見宮家・山内侯爵夫人のパリ行きに際し健康管理のために、タケは41年9月まで随行する機会を得た。タケは随行終了後も語学研修を希望し、約半年間一人パリに残り異国での生活を経験した。その後も梨本宮夫妻の欧州旅行随行、ICN(国際看護婦協会)ロンドン大会への出席と国際的な活躍をし、42年9月、2年間の欧州滞在を終え帰国する。同年、病院に復帰するとともにICN(国際看護婦協会)名誉副会長に推薦された。 また、大正元年にはドイツ・ケルン看護婦国際大会へ、昭和4年にはカナダ・ モントリオール各種国際会議で活躍し、第1次世界大戦終了後には、シベリアに出張し業務視察と慰問を行っている。大正9年に起こったポーランド孤児の救済を日本赤十字社が担当した際には、タケはウラジオストック経由で日本に渡った餓えとおびえで蒼白の孤児の介護を指揮している。
ナイチンゲール記章受賞
そんな活躍の中で、大正6年に父・喜左衛門が死去する。タケは五日市の家を始末し、母と弟茂吉を日赤に近い大森に呼び住まわせた。母は大正11年に病没。 大正9年(1920)、タケは第1回フローレンス・ナイチンゲール記章を受賞する。世界各国の受賞者52名、のうち日本からは、萩原タケ・山本ヤヲ・湯浅うめの3名が選ばれ、日本人初の受賞者となっている。 その後、大正期後半、50歳を迎えたタケは持病の喘息が悪化し、体力の衰えが目立つようになったが、国の内外で活躍するタケの名はますます高まり、働く 婦人のシンボルとして、キャリアウーマンの先駆として、尊敬を一身に受けていた。 昭和11年5月27日、享年63歳で死去。日本赤十字社は盛大な病院葬をもって永年の功績に報いた。タケは、明治43年の日本赤十字病院看護婦監督就任から、 昭和11年(1936)日赤病院にて死去するまで、28年間を監督として2700人あま りの看護婦の養成・指導にあたった。 あきる野市役所五日市出張所玄関前には「萩原タケ女史 人道のために国家のために」と題した胸像が建てられている。
参考文献
書名 | 著者名 | 出版年 | 出版者 |
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秋川流域人物伝 | 著者:中村正 編集:西の風新聞社 |
平成7年 | |
「献身」萩原タケの生涯 | 森禮子 | 平成7年 | 白水社 |
わが道は白衣とともに | 森下研 | 平成10年 | PHP研究所 |
「萩原タケ」ナイチンゲール記章に輝く郷土の人 | 石井道郎 | 昭和59年 | 五日市町教育委員会 |
「多摩のあゆみ第37号」 | 昭和59年 | 多摩中央信用金庫 |