五日市憲法草案とその評価
明治13(1880)年11月、国会開設運動の全国的な団体である国会期成同盟は、第2回大会を開き、各地の結社(自由民権グループ)で「憲法見込案」を作成して、翌年の第3回大会で「持参研究」することを決議します。それを受けて、各地で「私擬憲法」(民間有志による私案の憲法)起草活動が活発になります。「五日市憲法草案」もこのころ起草された私擬憲法のひとつです。
明治14(1881)年10月に、明治23(1890)年に国会を開くことや欽定憲法(君主により定められた憲法)を定めることを表明した「国会開設の詔勅」が出されました。これにより、国会期成同盟の目的である国会の開設が約束されたため、同月の第3回大会は、来るべき国会開設に向けた政党樹立のため、自由党の結党大会に切り替えられます。
このため、各結社で起草された私擬憲法は議題には取り上げられず、千葉卓三郎が起草した草案も、昭和43(1968)年に東京経済大学色川ゼミの文書調査によって発見されるまで深澤家の土蔵に眠り続けることになります。
千葉卓三郎の起草した草案の標題は「日本帝国憲法」ですが、発見者は千葉の知識や個人的な資質が、五日市を中心とする地域の人々との交流や協力により磨かれ、地域の自由民権運動につながっていること、さらに五日市学芸講談会や学術討論会では、様々なテーマの討論、検討がなされており、五日市の地域社会と切り離して考えられないことから、この草案を「五日市憲法草案」と名付けました。5篇204条に及ぶ大作で、極薄和紙24枚に細かな文字で清書されています。
現在発見されている自由民権運動期の私擬憲法の中でも、国民の権利の項目に多くの条文が割かれており、現在の「日本国憲法」と比較しても引けを取らない民主的な内容を含んだ憲法草案であること、五日市地域の有力者や若者たちを中心に学習結社「五日市学芸講談会」を組織し、憲法に関する討論会や学習会を実施しており、自由民権運動から憲法草案起草に至る経過がわかることが高く評価され、東京都の有形文化財にも指定されています。