明治10年代、当時の人びとがお互いの意思を伝えるための手段といえば、何よりも書簡や葉書でした。
深澤家文書の中には、各地の民権家たちと交わされた貴重な書簡が多く残されています。肉筆で綴られた文章は、100年以上の時を越え、書いている側の気持ちまで伝わってくるようです。
千葉卓三郎から深澤権八宛てに送られた、彼らの信頼関係や友情がよくわかる書簡資料を紹介します。
千葉卓三郎の深澤権八宛て書簡
明治14(1881)年6月7日
明治14(1881)年5月頃から千葉卓三郎は一時五日市を離れ、北多摩郡奈良橋周辺で活動していたようです。
自分が去った後の五日市有志会(講談会のことか)の状況を想像して、「演説ハ君ト土屋兄弟ノミトナルベシ」「深奥ノ経済、兵法ニ至リテ一人モ之ヲ講スルモノナキニ至ルベシ」「拙工詩文、下手書画ノ巣窟トナルベシ」といった言葉が綴られています。
離れていても、五日市の仲間たちを心配している卓三郎からの厳しいメッセージです。
千葉卓三郎の深澤権八宛て書簡
〔明治16(1883)年〕9月11日
千葉卓三郎は明治16(1883)年11月に31歳の生涯を終えます。その闘病中、病床にありながら何通もの書簡を深澤権八、名生親子に送っています。本書簡では、先に胃病を患っていた権八が快方に向かっていることを喜び、自らも体調が良いことを伝えています。そして権八が全快したらまた送付するので、貸していた『新刑法擬律』を一度返してほしい旨を記しています。
千葉卓三郎の深澤権八宛て書簡
〔明治16(1883)年〕10月22日
この時期、結核菌が腸にまで達して腸閉塞を起こし始めていた卓三郎の、壮絶な闘病状態が綴られています。
「小生廿日ノばん十一時頃ヨリ腸痛劇疼ニシテ、肝ヲカキ泣ヲ流シ手足ヲモカキテ苦シミ」と、苦しみの真只中でも冷静に自分の状況を伝えようとする姿に、卓三郎と権八親子との結びつきの強さが感じられます。