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五日市憲法草案に夢をつづったふたりの青年について

千葉 卓三郎(ちば たくさぶろう)

嘉永5(1852)年6月17日 陸前国栗原郡白幡村 生まれ

千葉卓三郎についての解説はこちら(⇒「千葉卓三郎の学習遍歴」)

深澤 権八(ふかさわ ごんぱち)

文久元(1861)年4月28日 武蔵国多摩郡深沢村 生まれ

深澤権八についての解説はこちら(⇒「深澤権八の人物像」)

五日市憲法草案の起草に大きな役割をはたした千葉卓三郎と深澤権八は、年齢にして9歳ちがい、生まれも東北の武士の家、関東の名主の家と大きく異なっています。

千葉卓三郎は故郷を離れ、放浪の旅をつづけた人物で、深澤権八は生まれた村で一生をまっとうした人物でした。

こうしたふたりが出会い、友情を育むということは、江戸時代の封建制の社会では考えられないことでした。この出会いを可能にしたのは、明治初期の人や社会、国内情勢の激的な変化が挙げられます。

当時は、日本各地の多くの人々が出生地を離れて流動しており、このような人々を広く門戸を開いて受け入れていたのが、当時の五日市でした。このことは、深澤家文書に残されていた、漢詩制作グループの作品集『鷺約鷗盟集』に記載されていた寄稿者の出身地を見てわかります。利光鶴松・蒿地堯平(大分)、油井守郎・伊東道友(仙台)、中島元徴・竹村美雪(近江)、久保田久米(三河)、赤星晃(福岡)など、全国から五日市へ集まってきた寄留者たちの名前が多くみられます。千葉卓三郎もまた、そうして受け入れられた人物の一人でした。

迎え入れた側の深澤権八をはじめとする五日市の人たちにとっても、千葉卓三郎の学識や豊富な経験から導きだされる意見は大きな刺激になったと思われます。

ふたりの青年の奇跡の出会いは、五日市憲法草案の起草へとつながっていきました。

五日市憲法草案には、国家のあり方、国民一人ひとりが同じ権利と自由を持った社会という、彼らの目指した理想の日本がつづられています。

しかし「憲法見込案ヲ持参研究」する予定だった国会期成同盟第3回大会が、自由党の結党大会に切り替えられたため公に発表されることはなく、昭和43(1968)年に発見されるまで眠りつづけることになります。

参考文献
『民衆憲法の創造』 色川大吉 江井秀雄 新井勝紘 評論社 1970年
『五日市町史』 五日市町史編さん委員会・編 五日市町 1976年
「五日市憲法草案と深沢権八」 石井道郎 『郷土あれこれ』第5号 五日市町郷土館 1984年
『自由民権に輝いた青春』 江井秀雄 草の根出版会 2002年
『五日市憲法草案とその起草者たち』 色川大吉編著 日本経済評論社 2015年
『五日市憲法』 新井勝紘 岩波書店 2018年

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