明治10年代に入ると、自由民権運動の盛りあがりとともに各地で「結社」といわれるグループが盛んに作られるようになります。「五日市学芸講談会」もそのひとつです。
五日市地域では、五日市憲法草案が起草された後もいくつかの結社が組織され、活動していました。 その中から二つの結社を紹介します。
協立衛生義会
明治10年代の伝染病は甚大な被害をもたらしました。明治12(1879)年のコレラ患者は全国で16万人に達し、10万5千人あまりが死亡。明治15(1882)年には東京を中心に蔓延しました。
また、明治16(1883)、18(1885)年には赤痢が大流行し、死者は1万人を超えました。当時の医療体制は粗末なうえに不備も多く、政府の方針も十分には行き届いていませんでした。
明治18(1885)年、五日市では「協立衛生義会」が発足し、地域として伝染病に対応する体制を整え、自主的な衛生運動を展開していきます。日常の衛生上の注意や会員の衛生演説、衛生情報の収集や審事委員の研究が重視され、「公衆衛生科」「学校衛生科」「救済科」「嬰児保育科」などの専門分野が設けられていました。会員の扶助だけではなく、地域に開かれた活動を展開していました。
協立衛生義会規則
明治18(1885)年3月ごろ作成されたものと推測されます。人民の健康安全を保持増進する方法を討議し、衛生上の知識を普及することを目的に掲げています。
20条には衛生を公衆衛生、職業衛生など9科に分類し、それぞれ専門の審事委員を配することが定められています。
協立衛生義会姓名表
明治17(1884)年~21(1888)年ごろ作成されたと推定されます。
会頭は内山安兵衛、副会頭に影山真玄、幹事は深澤権八、馬場勘左衛門、嵩地尭平の3名。会員は35人が名を連ねています。
役員・参加者の多くが五日市周辺地域の人びとですが、青梅や八王子からの参加者もあり、郡外への広がりも認められます。
憲天教会
自由党が解党を決議した明治17(1884)年10月以降も、全国の民権家たちは活動を続けていました。
自由党解党大会にて植木枝盛によって提案された、国会開設の期限を早めるように要求する建白書を起草、提出するための運動もそのひとつに挙げられます。
西多摩地域では、深澤権八が発起人の筆頭として起草している「国会開設期限短縮建白書」が残っています。提出には至っていないようですが、日々強まる民権運動への弾圧に対する危機感を強く持っていたものと考えられます。
こうした背景からみると、憲天教会は仏教演説会を中心とした活動を行うと謳われていますが、この地域の民権家たちが集会条例などの取り締まりを避けて活動するための結社ではないかと推測できます。
憲天教会名簿
明治18(1885)年3月に作成された名簿で、のちに小田急電鉄を創設する利光鶴松の名前も見られます。
規約には、仏教演説会を通じて社会の開明を図ることを目的に、毎月講談を開催することが定められています。
参考文献
『新編明治精神史』 色川大吉 中央公論社 1973年
『自由民権に輝いた青春』 江井秀雄 草の根出版会 2002年