五日市憲法草案が生まれる素地
五日市は、関東平野の西端に位置し、西に広がる関東山地から流れる秋川によって開析された渓口集落であり、中世の終わりごろから市が開かれ、山の産物と平野の産物や日用品との交易が盛んに行われていました。
江戸時代になると江戸の街で消費される炭の需要の高まりによって、炭が主要な取引商品となり、市の規模も大きくなりました。また、山間部の杉・檜は切出され、筏に組んで秋川・多摩川を下ろしていました。また筏の上荷として杉皮なども運ばれていました。
青梅材と呼ばれるこの地方の材木は、消費地江戸に近いことから、大火の後は飛ぶように売れました。このように江戸の街とのつながりは強く、江戸の情報にも通じていました。
また、関東山地の山際は、農作物が育ちにくいため桑を栽培し、養蚕が盛んな地域でした。開国に伴って生糸は暴騰し、黒八丈の生産者は大打撃を受けましたが、賢明な農民は増産に励み、養蚕が地域の有力な産業に成長していきました。そのため、海外への積出港であった横浜を通じて、海外の情報にも敏感で、深沢家に残っていた黒船来航時の絵が物語るように、欧米諸国の動向にも目が向けられていました。
さらに、「市」のまちとして古くから栄えてきたため、村の中には有力な在方商人として財を蓄え、地域の有力者として指導力を発揮するとともに、農民教育も盛んで、地域の外からもたらされる新しい文化を受容する素地も作られていました。