千葉卓三郎は明治14(1881)年の夏ごろから体調を崩していました。五日市憲法草案起草後は、死期を悟っていたのか、自らの思想を集大成するかのように講演や執筆などに取り組み、政治思想について『王道論』、真の学問・知識とは何かという問題について『読書無益論』という著作をまとめています。
卓三郎が五日市憲法草案起草の際に、どのような思想を持って条文を執筆していったかを読み解く鍵となる著作「王道論」を紹介します。
「王道論」 明治15(1882)年秋 脱稿
「王道論」は「第一章 総論」から「第八章 立憲政体即チ憲法ヲ国約シ国会ヲ設クルヲ拒ム物ハ咸ナ違勅ノ罪人タルヲ論ス」までの章から成る毛筆仮綴の論考です。
古代中国の政治思想(『周書』など)をひきながら、卓三郎は自身が考える政治体制のあるべき姿について論理を展開していきます。
本論の中で「極」という言葉が使われています。「王権其極ナケレハ専制ナリ、民権其極ナケレハ専横ナリ」というように、「極」とは君主、人民が持っている権利のつきつめられた極点、極みといった意味で用いられているようです。
それぞれの権利に「極」を設け、「広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決」するような「大同」に従うことこそ王道と主張しています。
君主の権利と人民の権利の調和のうえに、憲法を制定して国会を開設する立憲政体の実現を訴えているところが「王道論」の特徴です。
卓三郎は「若シ人民権利ト人君権利ト集合(競合か?)スルトキハ人民ノ権利ヲ勝レリトス」(「タクロン・チーバー氏法律格言」)という考えを持つ人民主権論者でありましたが、君民共治論(のちの立憲君主制)に立って五日市憲法草案を起草し、「王道論」を執筆しました。
仙台進取社の国分豁(あきら)の「制法論」に学んだ卓三郎は、国分のいう「製法ノ本源」-<道理に遵(したが)う><時世に適する><風土を察する>-を念頭において、五日市という“場”をとおして学んだ民衆の意識をもとに、実現可能な国家形態を五日市憲法草案で条文化していったものと考えられます。
参考文献
『三多摩自由民権資料集 上巻』 色川大吉 大和書房 1979年
『明治の文化』 色川大吉 岩波書店 1970年
『新編明治精神史』 色川大吉 中央公論社 1973年
『自由民権に輝いた青春』 江井秀雄 草の根出版会 2002年