生い立ち
嘉永2年(1849)3月、摂津国有馬郡三田屋敷町(現:兵庫県三田市)に、父・隼之介(三田藩士)の四男として生まれる。
8歳の時から藩校の造士館で漢籍を学び、さらに16歳の時に江戸に出て皇漢学を学んだ。帰郷してからは造士館で助教を勤める傍ら、英語、数学についても学び、明治3年には尾州名古屋英学校に入学している。
明治5年(1872)に、神奈川県権令(地方長官)大江家に書生として住み込み、同6年(1873)、師範学校である横浜啓行堂に入学した。同7年(1874)6月には神奈川県4等訓導補の資格を得て、10月、神奈川県西多摩郡引田村の集開学舎(後に共和学校と改称、現:あきる野市立西秋留小学校)に奉職する。
妻の名はフク、明治8年(1876)には長男盛一が誕生している。
戸倉小学校
明治17年(1884)5月末、戸倉小学校(旧あきる野市立戸倉小学校 当時の児童生徒数50有余名)に第4代校長兼訓導として赴任する。
戸倉村は、もともと教育熱心な村であったが、疋田が着任した当時は財政が極めて厳しい状況で、給料の支払いにも困窮する状況が続いたという。戸倉小学校の校舎も、明治14年(1881)に増築される予定であったものが中断されており、門も玄関もなく雨漏りもするほど荒れ果てている状況であった。
疋田は、生活費のため早朝は木炭背負いの人夫として働き、夜は草鞋作りをしたという。妻のフクも、針仕事の内職や衣服を売るなどして疋田を支えた。
このような苦しい日々にもめげず、戸倉学校に留まった疋田は、戸倉村出身の清水良八と共に熱心に子どもたちの教育に取り組む。子どもたちの家を訪ねた際には、挨拶などは簡単にすませ、囲炉裏端に上がりこんであぐらをかき、子どもを膝にのせて世間話やしつけの話をしたという。気さくさと人情味を持ち合わせた性格で、村の人々からの人望も厚かった。
疋田は、小学校内に補習科を設置し小学校4年卒業者の補習教育を始めた。また、人の和を大切にし、村の再建に向けては、「自分の村は自分たちの力で」を信念として、青年層の教育にも取り組んでいる。そしてその中から、後の村長となった萩原角左衛門が育っている。角左衛門は、「植林による財政的基礎の形成」「教育による村人の精神的基盤の育成」の二つの方針を立て村の再建を図った。
明治27年には村の人々の努力が実り、戸倉小学校の校舎が増築される。この当時の玄関は「戸倉荘」の玄関として残っていたが、平成20年(2008)3月に閉館となり、現在では取り壊されている。
その後
疋田は、明治29年(1894)9月22日、在職中に心臓麻痺のため48歳で急逝。村では、村葬をもって功績に報いた。その亡骸は城山山麓の光厳寺に埋葬された。また、命日の9月22日に「疋田浩四郎先生を偲ぶ日」として、毎年戸倉小学校の6年生が墓参し、お墓の清掃を行って業績を偲んでいる活動が、閉校した平成24年度(2012)まで行われていました。
疋田没後、戸倉村は、明治30年代から優良自治体として「模範村戸倉」の名が全国に知られるようになり、明治43年(1910)には、内務大臣より表彰された。
また疋田は、『教への聖 われ等の先生』というタイトルで映画化されたこともあり、後年「日本のペスタロッチ」と呼ばれた。
参考文献
書名 | 著者名 | 出版年 | 出版者 |
---|---|---|---|
戸倉小学校百年のあゆみ | 昭和47年 | 戸倉小学校百年記念委員会 | |
戸倉小学校創立130周年記念誌 | 平成15年 | 戸倉小学校創立130周年記念事業実行委員会 | |
閉校記念誌 戸倉 | 平成25年 | 戸倉小学校閉校記念誌編集委員会 | |
村誌・戸倉 | 昭和43年 | 戸倉村誌編纂委員会 | |
郷土に光をかかげたひとびと | 昭和29年 | 東京都西多摩地区小学校校長会 | |
教育人物史話-江戸・明治・大正・昭和の教育者たち- | 山本龍生 | 平成9年 | 日本教育新聞社出版局 |
戸倉物語 秋川谷の夜明け | 石井道郎 | 昭和60年 | (株)けやき出版 |