生い立ち
末太郎は、慶応元年(1865)に五日市の富農内山安兵衛家(大内山家)、七代目安兵衛英招(てるあき)の嫡男として生まれ、明治13年(1880)には家督を相続し、八代目内山安兵衛となり、家業である質業を営んでいた。 明治21年(1888)8月にカトリックの洗礼を受け、洗礼名をポーロ(保禄)とした。現在、彼の墓は秋川を望む崖上の一角に建てられ、墓石にはフランスから取り寄せたブロンズ製の十字架が使用されている。また、彼が洗礼を受けた場所は、内山家裏の五日市を流れる秋川の淵とされ、以来、土地の人はその場所をヤソ(耶蘇)淵と呼んでいる。
自由民権運動と政治活動
明治12年(1879)頃より、五日市において自由民権運動が芽生え、同時期に発足したとされる「五日市学芸講談会」では、政治、経済、法律、人権について討論会を行っていた。末太郎は「五日市憲法草案」起草者の千葉卓三郎や憲法草案が発見された深澤家の深澤権八らと供にこれに名を連ね、嚶鳴社の民権活動家を五日市に招聘し演説会を開くなど、五日市全体で民権運動を活発化させていた人である。 (深沢家文書「学芸講談会回状」内、内山末太郎の名前と「内山」の印鑑の写真) 明治14年(1881)の政変により、急遽、10年後に国会開設の勅諭が出されると、各政治団体は政党化する動きに転換した。学芸講談会も、それに同調するかのように組織改革をし、末太郎らに主導権が移行した。また、それまで嚶鳴社と近しい関係であったが、嚶鳴社が政変で追放された大隈重信率いる改進党へ接近していったため、嚶鳴社との関係を絶ち、板垣退助率いる自由党へ接近し、末太郎は学芸講談会のメンバーとともに自由党に入党している。ちなみに、末太郎は都内で修学中の明治15年(1882)に、暴漢に襲われて都内で静養中の板垣退助に面会している。 明治18年(1885)の大阪事件により、三多摩の民権家達が逮捕され、また、明治20年(1887)には「保安条例」により民権運動が抑圧されると、五日市の民権運動も下火になっていった。民権運動後は、深澤権八等らが西多摩郡全域の公衆衛生を推進する住民運動を進め「協立衛生義会」を設立し、初代会頭に末太郎が立てられた。 その後、末太郎は三多摩の自由党員として政治活動に参加しており、明治25年(1892)には神奈川県会議員となり、翌26年(1893)に三多摩が東京府へ移管されると、続いてそのまま府会議員になった。 その後議員を辞し、政治活動の一線から離れ、父、祖母、弟が相次いで死去した後、明治35年(1902)頃から妻の療養を兼ねて、神奈川県逗子に移住した。 逗子へ移住した末太郎であったが、大正9年(1920)に郷里五日市の岸忠左衛門らに推され、第14回衆議院議員選挙に出馬し、当選した末太郎は、大正13年(1924)1月の衆議院解散まで代議士を勤めた。 その後、昭和11年(1936)9月28日に永眠。遺骸は五日市へ運ばれ、埋葬された。
地域経済における存在 ~「五日市銀行」と「五日市鉄道」~
内山家は、小さな質屋に資金提供したり、村の共有林を担保に年貢の立替払いをする元質(もとじち)屋を営み、その利益は質受け及び購入した山林からの収益、田畑の小作料、貸付金利子などによって得ていた。内山家は五日市に移り住んだ後、四代目安兵衛の英(てる)智(ちか)が五日市産の黒八丈を京都で商い、それで莫大な利益あげ財を成したとされ、それ以降、次々と山林を手に入れ財産を築いた。 明治29年(1895)に、五日市の旧家の土屋常七の提唱により「五日市銀行」が設立され、末太郎にも声がかかる。五日市の名家、土屋家と内山家が発起人の筆頭となったことから、1株50円の株式募集もことなく進み、発足当時の株主は81名。うち42名は五日市在住の有力者だった。五日市銀行の資本金は8万円で、頭取に土屋常七、副頭取に末太郎を置いた。なお、店舗は内山家の長屋門を使用していたとのことである。 五日市銀行は、商売の元手として貸付を行っており、主な融資先は糸繭仲買人や木材関係者であったとされる。その後、末太郎は逗子に移住するにあたり、銀行の役職を離れ店舗を閉めた。新店舗は土屋常七宅前(現在のモリタ薬局)に移転した。五日市銀行は、日露戦争及び第一次大戦後の景気によって業績を伸ばしたが、一転、不景気となると業績が悪化し、また、常七の後継者が営業上の失敗を重ねた結果、土屋家は破産し、五日市銀行も休業した。そして大正13年(1924)9月、第三十六銀行に吸収された。 衆議院議員となった末太郎は、選挙へ担ぎ出した岸忠左衛門らによって、「五日市鉄道株式会社」(大正10年(1921)設立)の社長にも推され、これを承諾し就任した。鉄道事業に郷土の代議士を旗印として担ぎ、檜原村から東秋留村に至る有力者を発起人に巻き込み、総力を結集させて取組んだことから、設立当初の株式募集は応募数が超過し、割当変更を要したほどであった。資本金は100万円で2万株、うち、末太郎の社長持株は1,000株で5万円を出資した 五日市鉄道は、大久野(おおぐの)(日の出町大久野)-五日市-拝島間に蒸気機関車を走らせ拝島駅で青梅鉄道に連絡させる計画であった。特に、大久野-五日市間は大久野地区の石灰石により浅野セメント(現:太平洋セメント㈱)工場を誘致する狙いがあった。その後、大正14年(1925)4月20日に五日市-拝島間が開通し、半年後に、大久野-五日市間も開通した。しかし、五日市鉄道は赤字経営が続き、末太郎を含めた3人の山持重役の個人保証による借入金でなんとか運営していた。
その後、昭和5年(1930)に拝島-立川間延長。更に翌年、武蔵田中-拝島玉川間が開通した。しかし、昭和16年(1941)2月28日に政府の企業統合政策に基づき、南部鉄道に吸収合併され、昭和19年(1944)4月1日には、青梅鉄道とともに国鉄に吸収された。
参考文献
書名 | 著者名 | 出版年 | 出版社 |
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『五日市町史』 | 五日市町史編さん委員会/編 | 1976年 | 五日市町 |
『多摩の人物史』 | 倉間勝義、岩淵久/編 | 1977年 | 武蔵野郷土史刊行会 |
『郷土あれこれ』第8号 | 1985年 | 五日市町立五日市郷土館 | |
『郷土あれこれ』第11号 | 1985年 | 五日市町立五日市郷土館 | |
『郷土あれこれ』第20号 | 1987年 | 五日市町立五日市郷土館 | |
『郷土あれこれ』第42号 | 1994年 | 五日市町立五日市郷土館 | |
『秋川流域人物伝』 | 中村正/著、 「西の風」新聞社/編 |
1995年 | 揺籃社 |
『父が語る五日市人のものがたり』 | 1994年 | けやき出版 | |
『多摩文化』第15号 | 1965年 | 多摩文化研究会 | |
『多摩文化』第18号 | 1966年 | 多摩文化研究会 | |
『国史大辞典』第6巻 | 1985年 | 吉川弘文堂 |