深澤権八は文久元(1861)年に、深沢村の名主、深澤名生(なおまる)の長男として生まれました。
新学制制度のもとにスタートした勧能学舎の1期生として学び、卒業後は学務委員や深沢村の代議人をつとめ、明治9(1876)年には15歳の若さで村用掛(村長に相当)に任ぜられています。
五日市では、自由民権運動の盛り上がりを受けて明治13(1880)年ごろに五日市学芸講談会が発足します。権八も幹事の一人として名を連ね、地域の自由民権運動の中心的人物となっていきました。
深澤家の蔵には、商用で上京したおりなどに買い求められたと思われる大量の書籍が残されていました。権八がたいへんな読書家・勉強家であったことが〔勉強ノート〕などの資料によってわかります。その蔵書は、千葉卓三郎をはじめとする学芸講談会の会員たちが大いに活用していたようで、彼らの学習をサポートする役割も担っていました。
また、民権家としての活動のほかに、詩人としての顔も権八は持っています。「武陽」などの号を用いて詩篇を制作し、700首以上の漢詩をつくり、17冊もの自選、自編の詩集を残しました。 明治16(1883)年11月に千葉卓三郎が死去した際には、葬儀や遺言の執行などを取り仕切り、卓三郎を追悼する詩を草しています。
しかし同じ時期に権八も体調を崩しており、翌17年には入院しています。そのような健康状態でありながらも、新たな結社「憲天教会」を発足させ、さらに地域における自主的な公衆衛生運動の組織「協立衛生義会」の幹事に就任しています。こうした足跡からは、民権運動が退潮傾向にあった時期においても、粘り強く活動を続ける権八の姿が浮かび上がってきます。
明治21(1888)年には神奈川県会議員に選ばれていますが、その2年後、明治23(1890)年12月24日に29歳で死去しています。大日本帝国憲法発布、国会開設と大きく時代が変化する中の早すぎる死でした。
〔勉強ノート〕
権八によって記録されたノートです。
内容は、書籍から抜き書きした法律格言(「(大法官バコン曰ク)代議政体ノ長所ハ巧ニ腕力ノ改革ヲ避テ、常ニ平和ノ改革ヲ為スニアリ」など)や、「万物創造ノ起源」「直接税・間接税」といった事柄について調べたことを記したものなど、多岐にわたっています。
〔ノート・図書目録〕
参考文献
『明治の文化』 色川大吉 岩波書店 1970年
『新編明治精神史』 色川大吉 中央公論社 1973年
『「五日市憲法草案の碑」建碑誌』 「五日市憲法草案の碑」記念誌編集委員会編 五日市町 1980年