

千葉卓三郎の学習遍歴と深沢父子
五日市憲法草案を起草した千葉卓三郎は、嘉永5(1852)年6月17日に宮城県栗原郡白幡村(現:栗原市)に、仙台藩下級藩士の父千葉宅之丞のもとに生まれました。文久3(1863)年、11歳から仙台藩校養賢堂で学び、明治元(1868)年には藩校の仲間とともに戊辰戦争白河口の戦いに参戦しています。
この戦いで敗戦を味わった卓三郎は、様々な学問や宗教に真理探究の矛先を向け、皇学・浄土真宗・ギリシャ正教を学んでいます。特にギリシャ正教には傾倒し、上京して洗礼を受け、布教活動にも携わっていました。しかしその後も卓三郎の学習遍歴は治まらず、儒学・カソリック・洋算、さらにプロテスタントへと遷り変わっています。
その後、どのような経緯かはわかりませんが、明治12(1879)年頃から大久野、草花、川口など秋川谷の各地で教職に従事し、明治13(1880)年4月下旬には五日市に下宿して勧能学校に勤めはじめています。おそらくは卓三郎と同郷の勧能学校初代校長永沼織之丞の導きがあったのでしょう。
五日市にたどり着いた卓三郎は、新しい知識を求めていた五日市の民衆に受入れられました。特に深沢名生・権八父子との信頼関係は厚かったようです。小田急電鉄創始者の利光鶴松が『利光鶴松翁手記』の中で、「当時の出版されていた翻訳書の7~8割の本があり、誰にでも自由に閲覧させていた」と語っていますが、これらの図書を使って学習に励み、学芸講談会の活動を通じて地域の自由民権運動の質を高めるとともに、漢詩のサークルなどを通じて地域の文化にも貢献しました。
五日市憲法草案起草後の明治15(1882)年には結核が進行し、五日市の仲間からの援助を受けて療養をしていましたが、明治16(1883)年11月12日、31歳の若さで死去しました。

