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五日市憲法草案起草にたずさわった人たち

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五日市憲法草案起草にたずさわった人たち

明治13(1880)年11月の国会期成同盟第2回大会の憲法見込案持ち寄り決議を受けて、日本各地の結社では私擬憲法草案起草の機運が高まりました。その動きは広い範囲の地域にわたっており、また、民権家やジャーナリストなど、さまざまな層の人たちにもひろがっていきました。

五日市の民権家たちも、草案をまとめるために参考となるものを求めて、各地の民権家たちと積極的に連絡をとり、ほかの結社の憲法草案や学習結社の規則などを取り寄せました。彼らは深澤家の蔵書や取り寄せた資料等を活用して学習し、五日市憲法草案の起草への道を歩んでいくことになります。

五日市学芸講談会には、千葉卓三郎や深澤権八以外にも、年齢も生業もさまざまなメンバーが集まっていました。

土屋 勘兵衛(つちや かんべえ)天保3(1832)年~明治40(1907)年

土屋勘兵衛家は、代々、五日市村の名主をつとめていた旧家で、「下土屋」といわれていました。慶応2(1866)年に、青梅から梅形峠を越えてきた打ちこわし(武州一揆)の処理をしたのが勘兵衛です。

下土屋家を継いだ勘兵衛は、五日市学芸講談会の主要メンバーであり、五日市村の戸長のほか、明治12(1879)年からは神奈川県会議員にも選出されました。

明治13(1880)年12月に東京の府中駅で開催された演説会の際、嚶鳴社社員の野村本之助に依頼して、嚶鳴社が起草した私擬憲法草案を取りよせました。この行動が、五日市における私擬憲法草案起草活動を大きく前進させたと考えられます。

明治15(1882年)年の五日市学芸講談会での役職は「年寄」。同年、弟の常七らとともに自由党に入党しました。

土屋 常七(つちや つねしち)天保9(1838)年~大正9(1920)年

土屋勘兵衛の実弟。土屋権左衛門家(上土屋)へ養子に入ります。彼は12歳から30歳まで、厚木で呉服などを取り扱う商家に奉公し、そこで織物取引の経験を積みました。明治元(1868)年に、五日市へもどり家業の織物仲買業を継承し、明治26(1893)年には八王子に、2年後には日本橋に支店を開くなど、事業を拡大しました。その後、明治29(1896)年には五日市銀行を創設、初代頭取となりました。

明治10(1877)年ごろには、五日市村用掛(村長)となっています。五日市学芸講談会にも名を連ね、明治14(1881)年に五日市で開催された演説会や懇親会などで演説をおこなった記録が残っています。明治15(1882)年の五日市学芸講談会での役職は「年寄」。同年、兄勘兵衛らとともに自由党に入党しました。

常七は文学活動を好み、「紫水」と号して深澤権八らとともに漢詩グループに参加し詩を残しています。

馬場 勘左衛門(ばば かんざえもん)天保7(1836)年~大正5(1916)年

発足当初の五日市学芸講談会で、深澤権八らとともに「幹事」に名を連ねています。五日市で開催される演説会や懇親会の主催者のひとりでもありました。

明治15(1882)年の五日市学芸講談会役員改選後には「年寄」。同年、土屋兄弟らとともに自由党へ入党しています。

馬場は、西多摩郡の書記をつとめたほか、明治17(1884)年から明治22(1889)年まで、五日市町ほか10か村の連合戸長、明治24(1891)年から明治31(1898)年まで五日市町の町長をつとめました。

深澤 名生(ふかさわ なおまる)天保12(1841)年~明治25(1892)年

深澤権八の父。幼名は百実太郎といい、その後雅楽之助と改名し、さらに名生と改名しました。深澤家は、かつては清水姓を名乗っていましたが、明治維新の時に地名の深澤姓を名乗るようになりました。

幕末から明治当初の深沢村の名主・戸長をつとめ、地域の神社の神官をかねていたこともありました。安政5(1858)年には、祖父から千人同心も継いでいます。

商用で上京した際に購入したと思われる書籍を多く所蔵しており、その蔵書は、千葉卓三郎をはじめとする五日市学芸講談会の会員たちの学習に活用されました。千葉卓三郎からの信頼もあつく、権八とともに物心両面から卓三郎をサポートしました。

五日市学芸講談会には子の権八と共に名を連ね、明治15(1882)年の五日市学芸講談会での役職は「年寄」。その他、「憲天教会」、「協立衛生義会」などにも権八とともに名を連ねています。明治23(1890)年の権八死去後、明治25(1892)年に死去しました。

永沼 織之丞(ながぬま おりのじょう)天保7(1836)年~大正5(1916)年

名は秀実といい、通称は織之丞。宮城県桃生郡名振浜出身の仙台藩士で、仙台藩藩校の養賢堂で大槻磐渓に学びました。戊辰戦争では農兵隊長として白河口の戦いに参加し、仙台藩帰順の時には義勇隊の竹内寿貞と共に下獄して、自宅謹慎を受けています。

明治維新後に上京し、北多摩郡砂川村の豪農砂川源五右衛門の食客となり、竹内寿貞などと村塾で撃剣(剣術)・柔道などを教えました。

明治6(1873)年から明治14(1881)年まで五日市勧能学校の初代校長を務め、この時期に千葉卓三郎を助教として迎えています。

五日市学芸講談会での役職は「書記」。明治14(1881)年に行われた五日市での懇親会において演説した記録が残っています。

また、永沼は漢詩を岡鹿門(千仭)の塾に学び、「柏堂」と号して深澤権八らの漢詩グループに参加し詩を残しています。

「五日市学芸講談会 会員一覧」(PDFファイル)

参考文献
   『民衆憲法の創造』 色川大吉 江井秀雄 新井勝紘 評論社 1970年
   『五日市町史』 五日市町史編さん委員会・編 五日市町 1976年
   『多摩の人物史』武蔵野郷土史刊行会 1977年
   『「五日市憲法草案の碑」建碑誌』 「五日市憲法草案の碑」記念誌編集委員会 1980年
   『多摩の民権家と結社(民権ブックス1)』 町田市立自由民権資料館編集 町田市教育委員会 1988年
   『秋川流域人物伝』中野正著 西の風新聞社編 揺籃社 1995年
   『武相の結社(民権ブックス22)』 町田市立自由民権資料館編集 町田市教育委員会 2009年
   『神奈川県会と武相の民権家(民権ブックス27)』町田市立自由民権資料館編集 町田市教育委員会 2014年
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